ゆうきちのブログ その2

福岡在住の3児の母が日々のつれづれを綴ります。

長男大学生になる

早いもので、県外の高校の寮に入っていた長男が、4月から県外の大学生となった。

思い起こせば、県立学区内トップ校の高校受験に失敗してから泣く泣く長男を手放した3年前。

高校入学後初めての3者面談の日、分厚い教科書を眺めながら教室で私を待つ長男の所在なさ気な後ろ姿を廊下から見た時の、何とも言えず胸を締め付けられるような切なさは忘れられない。

何度「自宅から通う?」と喉元まで出掛かった言葉を呑み込んだことだろう。

帰省した長男を寮まで送り届ける道中では夫婦で毎度名残惜しい気持ちになったものだ。

限られた系属校推薦枠を勝ち取るため、校内外の模試や英検の取得、TOEFLの点数や一定数以上の評定の獲得、品行方正な生活態度やボランティア活動、自己PR動画や志望動機の熟考など、課せられた課題は思いのほか大きいものだった。

寮生活は厳しく、寮内でのゲームは禁止。スマホも使用制限をかけて充分な自主学習の時間を確保した。

違反やモラルを欠く行動をした生徒は容赦なく推薦を取り消された。

そんな中、長男は朝から親に起こされることもなく、無遅刻無欠席で毎日登校し、勉強しなさいと煩く言わなれくてもやるべき時にやるべきことをやり、希望の進路への切符を手に入れた。

長男は元来欲がなく、将来の夢も決まっておらず、進学先も「行けるところでいい」と言っていたが、進路を決める際に決め手となったのは、やはり仲間との繋がりや恩師からの激励が大きかったと思う。

一人息子なので、寮生活を送っていなかったら、同性の子たちと同じ釜の飯を食らうといった貴重な経験をしなかっただろうし、ここまでの社会性や仲間との絆は得られなかっただろう。

スポーツ進学を断って学力で進学したあとも高校の競走部で3年間ベストを尽くし、高校総体や駅伝大会に出場した。

駅伝に関しては、2回出場し、3年生の秋まで後輩のために襷を繋いだ。

 

コロナ禍の煽りを受けてなかなか保護者が学校へ出向くこともなかったが、卒業の日、夫婦で休みを取り学校へ行くと、家とは別人の長男がいた。

晴れ晴れとした表情で仲間たちと語り合う姿は、長男の3年間がいかに充実したものであったかを物語っていた。

4月から晴れて第1志望大学の学生となった長男。

入学式に見た彼の晴れがましい表情は、私の不安を払拭した。

ここから始まるこれからの人生が、真の彼を形づくるものになると確信めいたものを感じた。

 

行ってらっしゃい、長男。

良い旅を。

 

長女の北米ホームステイ

母の49日から100ヶ日まで終わり、季節は立冬を迎え、暦の上では冬になった。

紅葉も見頃を終え、朝晩の冷え込みは厳しい。

そんな今日この頃だが、色々と一段落ついたので夏休みに遡っての備忘録。

7/22~8/19までの約3週間、長女がラボ・パーティーの国際交流企画で北米テネシー州へのホームステイを経験した。

長男は中学2年生の時にオハイオ州へ。

長女も2年前に中学2年生でのホームステイを希望したが、コロナ禍で叶わなかったため2年遅れての参加となった。

準備期間に8ヶ月を要する計画であったため高校受験と重なり、スケジュール調整がとても大変だった印象。

しかし、昔から何かと要領の良い長女のこと、受験をクリアしたあとは高校生活を送りながら自己紹介アルバム作りや素語りの練習、英語劇の準備、事前活動、お土産作りや荷造りなどを猛スピードでこなし、なんと出発10日前には人生初のコロナウイルスに感染したがギリギリで完治し、「これで現地でかかる心配ないね」と余裕の表情で旅立っていった。

中学2年生で旅立った長男に比べたら、事前準備やホストファミリーとのやり取りにほとんど親の介入は必要なく、寂しいくらいだった。

ただ、3週間一切スマホを触れない生活のため、長女の安否確認はホストマザーからの『無事に我が家に到着しました』のメールを境に絶たれ、あとは祈ることしかできなかった。

高校生と言えど初めて訪れる国で家族の一員として『生活』することがいかに大変かは想像に難くない。

ホストファミリーの家族構成は音楽教師の両親と17歳、15歳、13歳の三姉妹と愛犬。

庭で野菜を栽培したり鶏を飼育している長閑な一軒家で、マザーや姉妹達はソーイングブラスバンド、料理が得意とのこと。

長女が日本から持って行ったのは英日で書かれた和食の料理本、英訳した怪談絵本、千羽鶴、折り紙、浴衣やカンザシ、箸、ソーメン、めんつゆ、お菓子、文房具、けん玉、抹茶セット等など。

おしゃれが大好きな長女らしく着物の歴史を自由研究のテーマとして選んで一冊のノートにまとめ、浴衣の着付けや襷掛けが出来るようになって行った。

長女を送り出したあとこちらでは、母の初盆の準備や長男の大学受験のサポート等で多忙な日々だった。

帰国した長女を空港で出迎えた際には、その表情の晴れやかさと肌艶の良さから、異国の地でしっかりと自分らしく生活してきたことが見て取れた。

現地で2週間学校に通ったこと、ホストファミリーと良い面悪い面含め家族として濃い時間を過ごしたこと、日本の文化をしっかりと伝えたことなど沢山話してくれた。驚いたことに、英語でのコミニュケーションにはほんど困らなかったとのこと。

相手の言っている事はほとんど理解できたという。

ただし、自分の言いたいことを伝える際には語彙力が足りずに苦労したことも多少はあったとのこと。

しかし、帰国した今でも日本の友達のようにホストシスターらとインスタグラムでやり取りをしている長女のボーダーレスな感覚に若さゆえの柔軟さを感じる。

ホストファミリーは日本人の受け入れが初めての家庭であったせいか不慣れな対応もあり、長女は寂しさから泣いた日もあったそうだが、最後は名残惜しいお別れを経験し、双方にとって忘れられない経験となったようだ。

長女が素語りをした「ぐるんぱの幼稚園」は「私達姉妹の今までで一番好きな物語になった」と喜んでくれたようだし、彼女が学校や団体活動で出会った人達は「◯◯(長女)はどうしている?」としきりに近況を聞いてくれたり、「私達も日本人の受け入れをしたい」と言ってくれるようにまでなったそうで、親としても行かせた甲斐があった。

中学2年生ではなく高校1年生で行ったことの意味として、彼女はただ「人間」として…ではなく「日本人」として国際交流ができたのだなと思った。

長男の際にはホストマザーが初めて彼に会った際のメールに

He's such a wonderful kid!

…と書かれていたが、3週間後彼を送り出した際のメールには

He's such a wonderful person!

と書いてくださっていて、彼が一人の人間として国境を超えて家族に認めてもらえたのだと胸が熱くなったのを覚えている。

ただ、「もう少し日本の文化について教えてほしかった」とも言われたようで、国際交流としては不完全燃焼感は否めなかったので、長女でリベンジを果たせたことは親としては満足。

長女自身は「良い経験になったけど、留学したいとは思わない。忙しいけど今の日本の高校生活が気に入っているし、将来の夢のために理系に進みたいから英語の道には進まない」とのこと。

今後変わるかもしれないが、今のところはそんな考えの長女。

ただし、英語の成績は上がり、英語に対する苦手意識は格段に下がった様子。

この経験を機に、これから先も人種の壁を超えてコミュニケーションがとれる地球市民の一員として活躍してくれることを願っている。

母との死別

2023/6/30 AM2:35

実母が永眠した

70歳と2か月の生涯だった

 

44年前、25歳で私を生んでくれた母

小さなブティックを経営しながら、私や弟にやりたいことをさせてくれた母

父が脱サラして国試合格から独立するまでの4年間独りで生活を支えた母

軽自動車1台の移動販売から始めた小さなブティックを、祖父譲りの商才で会社にまで拡大した母

開業から40年以上もの間、得意な話術で多くの人を楽しませた天性のエンターテイナーであり、経営者としては真面目な努力家だった

 

 

癌告知を受けたのが2019年3月

父の7回忌の頃

その時ステージⅣのスキルス性胃癌で余命3ヶ月と告げられる

手術ができない癌のため抗がん剤治療を受けることとなる

検査や抗がん剤投与のため入退院を繰り返したが、基本は在宅

ひとり暮らしで家事や仕事をしながら普段通りの生活をした

幸い弟家族が近くに住み、仕事を手伝っていたせいで孤独になることはなかった

やり残したことがないようにと、弟家族と共に国内旅行や食事会を重ねたが、思いのほか抗がん剤が効き、闘病から5年目に入ったところだった

医師も『この病気でここまで生きた人は見たことがない』と驚いた

血管が細くなり抗がん剤が入りにくくなれば鎖骨下からポートを入れて治療を続け、副作用で失明の危険に晒されれば目の注射を受け、ついに抜いても抜いても腹水が溜まり化学療法の限界と診断されるまで辛い抗がん剤治療に耐え前を向いて生きる姿を見せ続けてくれた

緩和病棟を紹介されたのが今年6月の初め

自身の生前葬を開いたのが6/8と6/10

2部に分けての会食で近しい人に別れを告げた

6/19…緩和病棟に入院して6/22〜24まで自身の店で最後のイベントを開催

その3日間は緩和病棟からの出勤

贔屓にしてくださったお客様方との最後のお別れ

6/28…昏睡状態になる前にと、本人の意向で孫含む子どもたち家族を呼び寄せて意識ある状態での最後のお別れ

6/29…実家に宿泊していた私のもとに、付き添っていた弟からの電話があったのが日付を超えた30日午前2時

私が到着した瞬間涙を一筋流して息を引き取った母

親の死に目に会えたことにはこの上ない感謝

葬儀は本人の生前からの希望で親族のみの密葬とした

葬儀社の手配やお寺との打ち合わせ、遺影の準備、さらに骨壷も本人の親友の陶芸家の方にオリジナルデザインで焼いてもらって生前に病室に届いていたため、こちらが決めたり準備することは一切なかった

よって、悲しみを分かち合うには十分な時間が遺族に与えられた

母らしい見事な最期だった

生きてる間は何も親孝行をさせてくれなかったので、せめて死化粧だけはと私が施した

ある人に言わせれば最期の一週間だけ普通の人だったと…

良くも悪くも突き抜けた人だったが、私の自慢の母であることに変わりはない

 

本人の意向により49日の法要を35日に切り上げて今年初盆をおこなうこととなった

初盆の段取りやお返しのこと、御香典の使い道も生前に自身で決めていた

亡くなる2週間前に本人が直筆で書いた挨拶状

香典返しの金券は自身の会社で使える一律の金額のものとし、あとはすべて本人の意向通り市内の6中学校へ寄附した

葬儀が密葬だったため初盆には沢山の方にご参列いただいた

 

16歳で家を出た私は、26歳で結婚して所帯を持ったため物理的には離れている時間のほうが長かった

ただ、精神的にはいつも母がそばにいた

 

勉強も仕事も子育ても

母に認めてもらうために頑張ったようなものだった

 

忙しい時に限ってかかってくる電話

生前は面倒に思ったこともあったけど

それが無くなった今は

大地を失った木のように

所在ない

 

いつも思い出すのは明るくひたむきな母の姿

 

これからは私が大地となり、母が見届けられなかった子ども達の成長をしっかりと支えながら見届け、弟家族と末永く良い関係を続けていけるよう精進したい

長女の高校受験と母娘ふたり旅

長女の高校受験から卒業までの備忘録を残そうと想いつつ、年度替わりの雑事に忙殺されているうちに、もう4月。

3日前に高校の入学式も終わり、物品の購入から提出物、金融関連の手続き諸々を済ませ、ようやく長女を新しいステージに送り込むことができた。

 

長かった受験生活…遡ること昨年夏。

部活のソフトテニスが終わり、憧れの進学塾の夏期講習に参加したあたりから、長女の高校受験が本格始動した。

塾には同中学の生徒も多数おり、張り合いのある環境、熱心な先生方のわかりやすい授業、データに基づく多くの問題演習の甲斐あってか長女はぐんぐんと成績を伸ばしていった。

週3日以上、夜10時帰宅のハードスケジュールに屈することなく、盆も正月も通塾した長女の体力や根性は部活動を3年間やり遂げたことに起因していたに違いない。

学習面では、天才肌タイプの長男とは違い、難しい問題は後回しにして取れる問題を一点でも多く取ることに専念した。

その点、兄よりも素直に塾の先生のアドバイスを聞き実行していた印象。

志望校については、入塾した当時は、学区内偏差値4位の県立高校がぎりぎり安全圏だった。

親としては学区内偏差値3位の県立に入ることができれば上出来だと思っていたが、長女は2位の県立に入りたいと言い出した。

そこで夫婦で話し合い、県や塾の模試で合格判定Aを取り続けたら目指しても良いと本人に伝えた。

すると長女は、志望校合格判定Aをコンスタントに取り続けた。

そのため、最終的に学区内偏差値2位の県立高校を第1志望校とすることに決めた。

我が家は長男が県外の私立高校の寮に入っているため、長女には是が非でも自宅から通える公立高校に通ってもらうことを望んだ。

長女も特段行きたい私立がなかった為、公立高校を目指すことに納得してくれた。

結果、本命の県立に落ちても公立には行けるようにと私立、組合立、県立の3校を受験することとした。

私立高校は2ndクラスに合格することができた。

その波に乗って、組合立は特進クラスを受験。

ところが、そのあたりから雲行きが怪しくなってきた。

いつも受けている県模試で、第1志望校合格判定がAからCに落ちてしまったのだ。

直前の模試でそんなことが起きたものだから、長女も大きなショックを受けていた。

組合立の受験結果は県立入試の前日にしかわからないため、ハラハラしながら通知を待っていたが、無事に合格することができたため、安心して本命の県立高校を受験することができた。

ところが、ここでもまた一波乱。

県立の入試問題の国語と数学が例年にない難易度で思った以上に解けなかったとのこと。

残り3教科で必死に気持ちを奮い立たせ、2教科分の失点を取り戻し、何とか終了。

直ぐ様塾で自己採点をしたところ、思った通り国数が取れておらず、合否はグレーゾーンのまま卒業式を終えた。

発表当日、夫婦で休みを取り、ノートパソコンの前に座る長女を離れた場所から見守っていた。

一瞬、アクセス集中で繋がらなかったインターネットがようやく繋がった。

何やら番号を探している様子。

しばし沈黙が流れる。

10秒、20秒、そしてズズッと鼻をすする音が聞こえてきた。

その瞬間、2年前の悪夢が蘇る。

パタンとパソコンを閉じて「無かった」と立ち上がった長男の顔が思い起こされ、崩れ落ちそうになったが、本当に辛いのは本人なのだから、これからどのような言葉で励まそうかと考え始めた矢先…

「合格してました」

と長女の明るい声に拍子抜けした。

 

「脅かさないでよー!!」

体中の緊張がふわーっと解かれて、涙が溢れた私。

夫も「おめでとう!」とホッとした様子。

長かった受験戦争もこれにて終了。

 

しかし、これで終わりではなかった。

私は、長女の受験勉強モチベーションアップのために、彼女と約束していたことがあった。

それは、第1志望校に合格したら母娘二人で韓国ソウル旅行をすること。

何故ふたり旅かというと、しっかり者のパパがいたら何もかもお任せで頼りっきりになってしまうので自立を目的とした旅ではなくなってしまうから。

少し不便な思いをしても女同士気兼ねなく韓国の食文化を堪能し、プチプラで可愛いファッションやコスメを思う存分買い回ることを彼女は楽しみにしていたのだった。

それは彼女が女性として自立に向けて歩みだすために、意味のある時間になると思っていた。

実は二年前長男が第一志望校に合格していたら、父子ふたり旅を企画していた。

目的地は長男の好きなマチュピチュでも京都〜東京でもどこでもありだと思っていたが、長男の自立にはあと3年間の猶予が必要だったようで、父子ふたり旅は叶わなかった。

話を母子ふたり旅に戻すと、その後他の予定も立て込んでいて日程が選べなかったため、出発日は合格発表から3日後に迫っていた。

事前にパスポート申請を終え、旅行会社を通じて航空券やホテルは押さえていたものの、不合格だった場合は、キャンセル料を支払っても迷わずキャンセルする約束にしていたため、そこからは猛スピードで準備に取り掛かった。

そして出発の前日、夫から長女に15年間所有を我慢したスマートフォンのサプライズプレゼントがあった。

携帯用モバイルバッテリーやWi-Fiをレンタルして、思う存分スマートフォンを使い、イヤフォンでK-POPを聞きながら二泊三日のソウル旅行を楽しんできた。

「15年間生きてきて、一番楽しかった。思い切ってここまで来て良かったし、受験頑張って良かった❤」

長女の口からその言葉を聞けたことが何より嬉しかった。

頑張って結果を出せばご褒美が待っている…そのことを実感させるために少しだけ無理をして計画した旅行だった。

私にとっても初めての韓国で、初めての子どもと二人きりの旅だった。

ただし、ベッタリ姉妹のような母娘関係を築くつもりもないので、二人旅はこれが最初で最後。

「これから行きたいところへは自分の力で行っておいで。そして、次はママじゃなく、自分で作った大切なお友だちと、自分で計画した旅が出来るといいね」と伝えた。

私も親として彼女にしてやれることはやり切ったと思えたほど密に関わった15年間だったから、私にとっても、卒業旅行。

これからは、彼女を「可愛い私の娘」から「一人の自立した女性」として程よい距離感で接していこうと思う。

そしてこれからの3年間は、彼女がどんな仲間や師に出会い、進路を選択するのかを少しだけ離れて楽しみに見守り、最適な環境を準備してあげることが親としての役割になるだろう。

コロナ感染

年が明けたと思ったら、早いものでもう節分。

昨年から続いていた仕事の忙しさの波が嘘のように落ち着き、平穏な日常を取り戻しつつある今日この頃。

しかし、昨年末は忙しさのピークに加え、コロナウィルスに感染して約一週間の自宅療養を余儀なくされるなど、泣きっ面に蜂状態だった。

 

コロナ感染について、以下備忘録。

 

娘のパスポートを作りに繁華街まで電車と地下鉄で出かけた翌日、喉の痛みと39度を超える発熱に見舞われる。

病院に連絡するが「発熱外来は受け付けていない」や「予約でいっぱいのため今日の検査は不可」と次々に診察を断られたため、自宅にあった抗原検査キットで検査したところ、陽性反応。直ぐ様長女の部屋を借りて自主隔離。

職場には一週間以上の療養の旨を電話で伝え、夫と長女次女の学校に連絡。

冬季帰省中だった長男に次女のお迎えや買い物をお願いし、長女は自主帰宅。

県のホームページで陽性者登録を試みたが、医師によるオンライン診断の結果「検査キットが研究用となっているため陽性者と認めらない」との回答。

直ぐ様県に依頼して、国から認可された検査キットの郵送を(念のため家族分も)依頼し、2日後に届いた正式なキットで再検査の結果、再度陽性が出たため正式に陽性者登録。

ついでに食料等生活必需品の支援も打診したが、濃厚接触者が食材や日用品の買い物に出ることは不要不急の外出に当たらないとのことから、断られる。

生活面においては、テレワークやオンライン授業への切り替えを余儀なくされた夫や子ども達が皆で協力して買い物や家事をすべてやってくれたので、助かった。

毎食届けられる温かい食事と葛根湯。

次女が書いてくれる手紙。

初めは申し訳なさと身動きが取れない歯がゆさで落ち着かなかったが、そのうち感謝が芽生えてきて、期間限定の有り難い身分に、しばし甘えさせてもらった。

日頃お世話をさせていただいている家族から、まさかお世話をしていただくだけという事態になるとは想像もつかなかったので、とても新鮮な体験…と、喜びに浸るも束の間。

私発症から3日後に長男が発症→県からのキットで陽性→オンラインで陽性者登録。

完全隔離でトイレなど共用部分は念入りに除菌していたにも拘らず…コロナの感染力の恐ろしさを見せつけられた。

その日から夫婦の寝室を隔離部屋にして長男隔離。

自室を隔離部屋として私に取られた長女が和室で寝ていたため、長男に部屋を取られた夫がリビングで寝袋で寝る事態となるなど自宅療養の限界を感じたため、長男と私二人分のホテル療養を県に申し出た。

県からは、療養期間が残り少ないという理由から私は自宅療養継続を勧められ、長男のみホテル療養が認可された。

雪の中、迎えの車に一人乗り込む高熱の長男を涙ながらに窓から見送り、コロナウィルスを憎んだ。

それから2日後、気丈に家事やオンライン授業に励んでいた次女が発症→陽性→オンラインで陽性者登録。

12歳未満は自宅療養が基本ということで、自室を隔離部屋にして次女も隔離。

寮生活に慣れている長男は、「寮にいるのと何も変わらない」とホテル療養を難なく乗り越えたが、私としては病気の息子が一人で居るのに何もしれやれないことが歯痒くてたまらなかった。

症状については、初めの2〜3日は命の危険を感じるほどきつかったが、ワクチン4回目接種を終えていたせいかその後は咳と喉の痛みが残る以外症状は軽く、iPadでAmazonPrimeを観たり読書したり、時間を贅沢に使えた。

両家の親兄弟からの温かい励ましや物資の支援もあり、あらためて身内のあたたかさを感じ、多忙な仕事ですり減っていた心身が満たされる思いがした。

しかし、重症化リスクの少ない私たちは死に至る可能性のある感染症にもかかわらず、感染後一度も病院に行くことも薬を飲むこともなく、自宅療養とオンライン診療だけで自主復帰する違和感は否めない。

喉の痛みやひどい咳、発熱による体の痛みと戦いながらの保健所への電話連絡やオンライン入力…長男のホテル療養に至っては何度も同じ説明をさせられ、辟易とした。

そんな紆余曲折を経て療養期間を終えた私は一週間程度で無事職場復帰を果たし、感染しなかった夫と長女は増えていった療養者の濃厚接触者ということで自宅謹慎期間が延び延びになり、職場や学校に行けないまま正月休みを迎えることに。

受験生の長女にも負担をかけて申し訳なかったし、夫に至っては介護疲れで2キロも痩せたそうだ。

せっかく集まった家族がバラバラになり、5分の3人が個室やホテルでひとりクリスマスを迎えることとなった年末だったが、療養期間明けの私が長男をホテルに迎えに行き、次女が隔離部屋から出てきて、ようやく家族揃っての年越しとなった。

受験生の長女の通塾もあったため、今年は帰省せず、義実家とオンラインで年明けの食事会をし、実家とは電話で新年の挨拶。

近所の神社に徒歩でお参りして、自宅で核家族だけのひっそりとしたお正月を過ごした。

 

そんな年明けの昨日、長女の私立高校の入試本番だったが、「平常心でいつも通り受けてきたよ」と落ち着いた様子だったことにひと安心。

この調子で第一志望校の入試まで頑張ってほしい。

働くママのご飯事情

仕事も忙しさが増し、20時まで残業が当たり前になりつつある今日この頃。

社会で活躍の場を得られることは有り難いけれど、気になるのは育ち盛りの小学生と高校受験を控えた中学生のご飯問題。

留守番も風呂掃除も洗濯物の取り込みもできるけれど、食事の支度はまだまだ。

働き盛りの夫も連日残業のため、なるべく娘たちが孤食にならないようにスケジュール調整したり、手料理を準備したりと工夫を凝らす日々。

その結果、朝に夕食を作ることが日課に。

朝、味噌汁の出汁をとる。

姉妹で居るときは、家庭科で味噌汁の作り方を習った次女が帰宅して味噌汁を作る。(長女監修のもと)

 

ある日は、朝から鍋の出汁に野菜類を入れて煮込んでおいて…

食べる前に、いわしのつみれや鶏団子を入れて煮るだけにしておいたり…

朝すき焼きを作り、温めるだけにしておいたり…

目立つ色の付箋置き手紙が重宝している。

朝チキンライスを作っておくと、料理好きの次女は自分でオムライスにして食べていたりもする。

そして、常備菜をまとめて作り置きする際に人気なのは、もやし、人参、ほうれん草、きのこなどを茹でて旨塩ドレッシングと和えただけの簡単ナムル風や、タコと胡瓜、わかめをカンタン酢と白だし、すり胡麻で和えた酢の物、ひじき煮、かぼちゃサラダ、ポテトサラダなど。

 

朝、手料理を準備して仕事に出るだけで、家庭の心配が減り心穏やかに仕事ができる。

おやつにはオーブンで焼き芋を焼いて行ったりも。

なるべく簡単に手作りで、忙しくてもしっかりと母の愛が伝わるように。

いづれ娘たちが大人になって結婚して家庭と仕事を両立するようなった時、自分がしてもらったことを家族にしてあげられるように、今から背中を見せておきたい。

今日は、午前休をとって「ラブマイセルフデー」。

ゆっくり食べるひとり朝ごはんと、オンラインブリービクスで、浅くなった呼吸と凝り固まった筋肉をリセット。

AI

今まで「お掃除くらいは自分で…」という気持ちと、AIに人間と同じ仕事ができるのか…という不安から、お掃除ロボットを敬遠していた。

しかし最近、月額980円でレンタルしてからというもの、その快適さに気づいてしまった。

毛足の長いラグも乗り越えることが出来たし、玄関の段差もホームセンターで購入したスロープで問題なくクリア。

週に2〜3回は自動清掃をしてくれるおかげで、掃除機はほとんどかけなくなったし、その度に床に置きっぱなしの物を片付けるようになったため、部屋がスッキリしている日が増えた。

これを機に、AIとの付き合い方について考えてみた。

私たちの日常にはすでにAIは溢れているが、まだまだ普及の余地はある。

最近多忙を極めている仕事場でも、AIが活躍してくれまいかと思ったりもする。

多い時で老若男女数十人(100人近い日もある…)のクライアントの対応、その合間にひっきりなしの電話対応、データ入力、システムの設定、書類の整理やコピー、発送業務、さらに別業務の受付書類作成などもあり、最近はお茶を淹れる暇もない。

それでも就業時間内に業務が終わらず連日1~2時間残業は当たり前。多い日は3時間。

せめて管理簿入力やシステムの設定だけでもAIにお任せしたいものだが、まだまだ手入力。

人手不足が深刻化する昨今、最新のレジのようにスキャンするだけで入力…なんてことにならないだろうか。

なんなら来客対応(電話も含む)も…と、思うけれど、AIに人相手の仕事はハードルが高いだろう。

自分の要件を正確に伝えられない人も多い中、少ない情報から経験値と想像力を活かしその意図を組む。

一見、各クライアントに同じ説明を繰り返しているようにみえて、実は理解度に合わせた言い回しや言葉のチョイス、声のトーンや話し方、間の取り方、目線を変えるなどの工夫、またお年寄りにはゆっくりと、聴力の弱い方には大きな声ではっきりと、不安の強い方には落ち着いた低音の声で安心感を、コミニュケーション重視の人には明るく高めの声で雑談も交えたりしながら距離感を縮め、さらに急ぎの方や家族連れには要点をまとめて手短に、細かい説明を求める方には細部まできっちりと順を追って説明し、質問にも片っ端から答えている。

そして最も大切にしていることは、それらをいかに効率よく最短時間でおこなうかということ。

それを怠ると、クレームにつながったり、逆に時間や手間がかかったりするので要注意だ。

目的を決めたら最短時間で達成するまでのプロセスを決める。

何を省いて何を残すかの取捨選択、何から始めてどの順で行うかの段取り、何にどれだけの時間を費やすかの優先順位を瞬時に決めて行動にうつす。(いや、決めながらうつす?が正解)

そしてその効果をいかに持続可能なものにするかも最近は問われてきているため、やった仕事が永きにわたって効果を発揮し続けるよう、行き当たりばったりではなく多角的に考え、決断しながら行動している。

さすがに同じ仕事をAIが担えるとは思えないので、今後はAIをうまく活用しつつ、人間が人間らしい仕事が出来るように整備を整えていくことが大事になる。

小さなことだが、AIが掃除機をかけてくれたおかげで今日は、かんたんマイペットを使って床の拭き掃除ができた。

掃除機をかけるというひと仕事が加わっていたら、床の拭き掃除はしなかっただろうと思うと、その恩恵でプラスアルファの効果が生まれている。

ついでにブログもアップ出来たというオマケつき。