ゆうきちのブログ その2

福岡在住の3児の母が日々のつれづれを綴ります。

母との死別

2023/6/30 AM2:35

実母が永眠した

70歳と2か月の生涯だった

 

44年前、25歳で私を生んでくれた母

小さなブティックを経営しながら、私や弟にやりたいことをさせてくれた母

父が脱サラして国試合格から独立するまでの4年間独りで生活を支えた母

軽自動車1台の移動販売から始めた小さなブティックを、祖父譲りの商才で会社にまで拡大した母

開業から40年以上もの間、得意な話術で多くの人を楽しませた天性のエンターテイナーであり、経営者としては真面目な努力家だった

 

 

癌告知を受けたのが2019年3月

父の7回忌の頃

その時ステージⅣのスキルス性胃癌で余命3ヶ月と告げられる

手術ができない癌のため抗がん剤治療を受けることとなる

検査や抗がん剤投与のため入退院を繰り返したが、基本は在宅

ひとり暮らしで家事や仕事をしながら普段通りの生活をした

幸い弟家族が近くに住み、仕事を手伝っていたせいで孤独になることはなかった

やり残したことがないようにと、弟家族と共に国内旅行や食事会を重ねたが、思いのほか抗がん剤が効き、闘病から5年目に入ったところだった

医師も『この病気でここまで生きた人は見たことがない』と驚いた

血管が細くなり抗がん剤が入りにくくなれば鎖骨下からポートを入れて治療を続け、副作用で失明の危険に晒されれば目の注射を受け、ついに抜いても抜いても腹水が溜まり化学療法の限界と診断されるまで辛い抗がん剤治療に耐え前を向いて生きる姿を見せ続けてくれた

緩和病棟を紹介されたのが今年6月の初め

自身の生前葬を開いたのが6/8と6/10

2部に分けての会食で近しい人に別れを告げた

6/19…緩和病棟に入院して6/22〜24まで自身の店で最後のイベントを開催

その3日間は緩和病棟からの出勤

贔屓にしてくださったお客様方との最後のお別れ

6/28…昏睡状態になる前にと、本人の意向で孫含む子どもたち家族を呼び寄せて意識ある状態での最後のお別れ

6/29…実家に宿泊していた私のもとに、付き添っていた弟からの電話があったのが日付を超えた30日午前2時

私が到着した瞬間涙を一筋流して息を引き取った母

親の死に目に会えたことにはこの上ない感謝

葬儀は本人の生前からの希望で親族のみの密葬とした

葬儀社の手配やお寺との打ち合わせ、遺影の準備、さらに骨壷も本人の親友の陶芸家の方にオリジナルデザインで焼いてもらって生前に病室に届いていたため、こちらが決めたり準備することは一切なかった

よって、悲しみを分かち合うには十分な時間が遺族に与えられた

母らしい見事な最期だった

生きてる間は何も親孝行をさせてくれなかったので、せめて死化粧だけはと私が施した

ある人に言わせれば最期の一週間だけ普通の人だったと…

良くも悪くも突き抜けた人だったが、私の自慢の母であることに変わりはない

 

本人の意向により49日の法要を35日に切り上げて今年初盆をおこなうこととなった

初盆の段取りやお返しのこと、御香典の使い道も生前に自身で決めていた

亡くなる2週間前に本人が直筆で書いた挨拶状

香典返しの金券は自身の会社で使える一律の金額のものとし、あとはすべて本人の意向通り市内の6中学校へ寄附した

葬儀が密葬だったため初盆には沢山の方にご参列いただいた

 

16歳で家を出た私は、26歳で結婚して所帯を持ったため物理的には離れている時間のほうが長かった

ただ、精神的にはいつも母がそばにいた

 

勉強も仕事も子育ても

母に認めてもらうために頑張ったようなものだった

 

忙しい時に限ってかかってくる電話

生前は面倒に思ったこともあったけど

それが無くなった今は

大地を失った木のように

所在ない

 

いつも思い出すのは明るくひたむきな母の姿

 

これからは私が大地となり、母が見届けられなかった子ども達の成長をしっかりと支えながら見届け、弟家族と末永く良い関係を続けていけるよう精進したい